自殺防止キャンペーン活動趣旨

自殺防止キャンペーン活動趣旨オレンジバンドは、「一人でも多くの人の命と心をつなぎ、暖かく明るい社会をこの世の中に創る」意味を持っています。

必要なのは一人ひとりの生きる勇気であり、生きる喜びです。この世の中には楽しいことや苦しいこともありますが、人との心の連帯感ができたとき、人は世の中を明るく歩いて行けます。オレンジバンドは人の心を明るくするバンドです。
一人でも多くの方にご参加いただき、心をつなぐキャンペーンを展開するため頑張っていきましょう。オレンジバンドに協力してくれる方は間接的ではありますが、心が温かい言葉になってその方に届きます。

「生きる勇気」のご紹介

自殺防止キャンペーン事務局にはたくさんの方からメールが送られてきております。
掲載の了解をいただきましたメールをご紹介いたします。

※「生きる勇気」で投稿を募集しています。是非あなたの話を聞かせてください。


私は、保育士の仕事をしています。お分かりの通り仕事場は女性ばかり。相手は、子供たち。
一見、見た目は楽しそうで、保育士を目指している人も多いでしょう。
でも、現実は思うように行きません。一クラス1人の先生が受け持つ事は無く、何人かの先生で受け持ちます。そこで、出てくるのが人間関係。
大人の人間なのだから、上手く付き合えて当たり前・・では、ないのです。適当に付き合えば良い・・のではありません。
仕事でのミスが続き、その事について罵声を浴び、眠れぬ日が続き、とうとう出勤する事が出来なくなりました。病院に行く事を勧められ、病院で投薬、カウンセリング。病名は、気分障害。
1人家に居ても、何をする気にもならず、ふと頭を過ぎるのは、「私なんか居なくなれば良い」「死んだら楽になる」「どうやって死のうか」「仕事もしないで金食い虫」と、頭の中はマイナスな事ばかり。
職場との連絡も途絶えて、社会から1人取り残されてしまっている。本当に、辛い毎日で寝るのが怖かった。明日は生きて起きられるだろうか・・
そんな悩みを、当たり前のように受け止めて、返事をくれる人がいました。それは、職場の1人の先生。
それまでは、挨拶を交わす程度の先生だったのに、何故かメールで悩みを伝える気になりました。
帰ってきた答えは、「辛かったね〜」「気付いてあげれなくてごめんね」
それから、何度もメールでやり取り。自分の気持ちを押し付けるのでは無くて、常に私の気持ちを的確に把握して、頑張れとは言わない。
そう言うやりとりをしている内に、月日が経ち薬もきてきたのか、少しずつ気持ちが和らいで来た自分に気付きました。
今までは、みんなと上手く付き合いたいと思っていたのですが、今は1人自分を理解してくれる人がいればそれで良いと思う様になりました。
それと、家族。何を言うでも無く、黙って見守ってくれた。
本当なら、毎日ゴロゴロしている妻・親に文句の1つも言いたかっただろう。それを、何も言わず今も見守ってくれている。家族の存在をこんなに身近に感じた事は無かった。
まだ、今は病休中です。でも、春から復帰する事が出来そうです。
誰でも、人生に行き詰まり「死」を考える事があるでしょう。でも、1人で悩まないで下さい。
周りを見回して下さい。きっと、誰の傍にも1人居るはず。
「生きる」事への、希望を諦めないで下さい。
一緒に生きて生きましょう。

いーちゃん・40歳 女性


病気になって
命の有り難みが
身に染みた自分だから
伝えれる事がある。

『健康で生きてる事』
それがどれだけ
素晴らしい事か
考えてほしい。

Mami・18歳・女性
闘病記 http://x75.peps.jp/mami0213mami/?cn=6&_cus=jq7q4i


「死にたくなかった、生きたかった」

私が生まれて初めて、自分で自分の手首を切ったのは、10歳になった秋のことでした。
父は会社をしていて、母も会社をしていて、姉は地元では有名の進学校に通っていて、私自身も、地元では有名の私学の小学校に通っていました。
父と母は仕事に忙しく、姉と私は塾や習い事に忙しく、家族全員で夕食を囲むことは本当に数えるほどしかなく、たまに囲む夕食はレストランでした。
その私が不登校になったのは10歳の秋。
いじめがあったわけでも、勉強についていけなくなったわけでも何でもありません。
学校へ行く意味がわからなくなったのです。
でも、誰にも怒られませんでした。
学校側は「個性を伸ばす」という教育指針のもと、「不登校も個性ですから」の一点張り。
父も母も、勉強さえしていてくれれば、別に学校など行かなくてもいいという感じでした。
そんな私が手首を切ったきっかけは実に簡単で、鳴っていた電話に父が出なかったから、というものでした。
きっときっかけなど、何でもよかったのだと思います。
私は一人、自分の部屋で、カッターを取り出し手首に当て、目を瞑って、カッターを引きました。
痛みと共に、涙と血が流れたのを覚えています。
けれど、私が手首を切ったことには誰も気付いてくれませんでした。
私は手首を切った以上に、このことがショックでした。
そして手首を切った3日後の夜、母に傷を見せ、「手首を自分で切った」と言いました。
けれど、母は表情一つ変えず、「そう」と言っただけでした。
心では泣いていたのかもしれません。
でも、怒って欲しかった。
抱き締めて欲しかった。
10歳の心がボロボロになったのは言うまでもありません。
それから3年後、私のリストカットは本格的になり、中学卒業後には大量服薬をするようにもなりました。
遺書を書いたこともあります。
本気で死のうと思い、何百錠の睡眠薬と共に、アルコールを飲んだこともあります。
精神科の閉鎖病棟の中で、首を吊ろうとしたこともあります。
けれど、私は死ぬことが出来ませんでした。
今、私は思います。
私はきっと死にたくなかったのだろう、と。
そう、私は何がなんでも生きたかったんです。
どうしても、この世にいたかったのかもしれません。
父に、母に、抱き締め、怒られたかった。。。
高級レストランの夕食より、家族でつつくお鍋のほうが、私にとっては最高においしかった。。。
今、22歳になった私。
その私が抱えたものは皮肉にも、原因不明の難病でした。
症状は全身の身体が痛くなるというもの。
原因不明で、治療法はありません。
今、私は全身に迫り来る痛みを止めるためにモルヒネを使っています。
モルヒネは、一応麻薬ですから、一歩間違えて服用してしまうと、死に至ってしまうこともあります。
また、間違った服用をしなくても、体調が悪く、自分で消化出来ないと、呼吸抑制と言って、呼吸が乱れたり、ひどくなると呼吸が出来なくなることがあります。
私も実際、何度も呼吸困難に襲われました。
その度に思います。
私に明日はないのかもしれない、と。
そんな日、私の頭には10代の頃のことが過ぎります。
何故、命を捨てようとしてしまったのだろう。。。
こんなにも今、生きたがっているのに。。。
今、違う方向から命を見つめた時、私は気付きました。
死にたかったんじゃない。生きたかったのだ、と。
今もそうです。
私は生きたい。
どうしても生きたい。
まだ、この世に未練がたくさんあります。

もし、今ここに命を捨てようとしている人がいるなら、私は言うでしょう。
「その命、私に下さい」と。
生きたくても、生きることが出来ない人がたくさんいます。
私もその一人です。
だから、そんなに簡単に命を捨てないで下さい。
そんなに簡単に命を捨てるなら、その命、私に下さい。
お願いです。
命を簡単に捨てないで。
命を捨てる前に、どうか誰かに相談して。
もしそれが私に出来るなら、私は喜んで相談に乗ります。
そして、永遠に命の素晴らしさを伝えます。
命は奇跡なんですよ!!

作家・早瀬さと子・22歳・女性
http://blog.livedoor.jp/satoko_page/


「神様は乗り越えられない試練を人に与えない」。電話口で話す母の声を聞きながら、私はもう一度生き直そうと心に誓った。私の人生で最も大きな試練……それは、死を意識せざるを得ないほどの苦痛に耐えることではなく、その思いを誰かに話すことだったのかもしれない。今振り返ると、そんな気がしてならない。

 2006年5月2日、私は自分の首にひもをかけた。きっかけは5年ほど前にさかのぼる。ちょうど、就職氷河期と呼ばれていた頃の出来事である。当時、東京の大学生として一人暮らしをしていた私は、厳しい社会情勢に反抗するかのように、寝る間を惜しんで求職する毎日を送っていた。親には「就職が決まるまで実家には帰らない」と大見得を切った。誰にも頼らず、自分の力だけで人生を開拓するつもりだった。そのプレッシャーが後の自分を死の間際まで追い詰めるとは、夢にも思わずに。

 ある日、とある会社での面接の最中に、私の体を異変が襲った。突然、のどが塞がったように呼吸が出来なくなり、無我夢中で面接室を飛び出した。どのようにして自宅に戻ったのかは全く覚えていない。気付いた時にはベッドの上で泣いていた。パニック障害の始まりだった。それ以来、電車に乗ることが困難になり、大学を卒業する頃には鬱病と肉体的な病気が併発していた。

 母には何も言えなかった。心配をかけたくなかったからか、それとも自分自身のプライドか、今となってはもう思い出せない。一人暮らしの引きこもりだった5年間、どのようにして生きていたのかも全くわからない。あまりにも辛すぎる記憶は、脳の奥底に封印されるという。先の見えない絶望感に耐え続けた5年の終極、私はほんの一瞬だけ理性を失った。

 首にひもをかけた瞬間、偶然自宅の電話が鳴った。その音に驚いた拍子にひもが外れた。私は現実に引き戻された。「なんだか胸騒ぎがして……」。母からの電話だった。私は神様なんて信じていない。だけど、その時は、神様がくれた最初で最後のチャンスだと思った。自分の弱さをさらけ出すのはとても怖いこと。だけど、少しの勇気が転機となる。

 人生修行。神様は乗り越えられない試練を人に与えない。たった一度の人生を自分らしく生きるため、闘うべきは自分の心。それは、必ず勝てる勝負。危ないと感じたならば逃げればいい。疲れきったら休めばいい。辛い時には泣けばいい。誰かに愚痴ってみてもいい。諦めたらそこでおしまい。最終的に勝てばいい。

rinascere・28歳・女性
http://rinascere.cocolog-nifty.com/blog/


「タリーズで、ブラッディーオレンジを飲んでみた。おいしかった。」

わたしの、とあるノートの1ページ目に書かれている言葉です。

そのノートの名前を、「いいこと日記」と言います。

4年前のことです。

当時の私は、会社で上司とうまくいかず、毎日泣き、潰れかけていました。

そんな私を見かねて、隣の課の先輩が終業後にお茶に誘ってくれました。

おおよその原因は分かっていても、先輩は、無理には何も聞き出しませんでした。

そして、私は、それが救いの手のように見えていながら、結局、何一つ話せませんでした。

たわいもない話をしました。先輩オススメのおいしいレストランの話など。

そして、その話の流れかのように、するりと、「いいこと日記」を勧めてくれました。

ノートを1冊買って、「いいこと」があったら何でもいいから、書いてみて、と。

「いいこと」を書くためには、「いいこと」を思い浮かべなければなりません。

「いいこと」を思い浮かべる、それが、大切なんだと。

翌日、ノートを買いました。

それから、数日たって、残業中に弊店間際の喫茶店で休憩を取りました。

胃を痛めていても、コーヒーを飲むつもりでしたが、
ふと目に留まった新商品を飲んでみました。
そうして初めて書いたフレーズが、冒頭の一行です。

そんな、どうでもいいことしか、書けませんでした。

他には、「いいこと」など、何もありませんでしたから。

1ページ目は、それしか書かれていません。

2ページ目は、破られてありません。

3ページ目もありません。

4ページ目には、少しだけ文章があります。

数ページ書いた後、そのノートは白紙が続いています。

初めて書いた時、「いいこと」があったという実感と

「やれた」という達成感で嬉しい気持ちがありました。

しかし、白紙ページの多い私のノートには、

「いいこと」が何もなかった日々が、ありありと映し出されていて、

今見ても、苦さがいっぱいです。

けれども、後日、気づいてみれば、それが私の生きる原点になりました。

ノートの存在は、先輩が、私を助けようとしてくれたことの証であり、

同時に、それを受け入れた自分がそこにいたことの証でもありました。

私が初めて、自分が立ち直ることのできる存在だと認識し、

初めて、立ち直ろうとした瞬間でした。

絶対ありえないと思った瞬間が、あっけなく訪れていました。

ノートを見るたびに、私にはその瞬間をがあったこと思い出すことができます。

愛子・29歳


死にたかった。

私の体はボロボロだった。いじめを受けて、教室への拒絶反応が体に見られるようになっていた。
激しい眩暈、吐き気、痙攣。
家に帰れば治まっても、学校へ行けばすぐ倒れる。授業が耳鳴りで聞こえない。黒板の文字が歪んで見えない。
いじめは続く。ご飯を吐いてしまう私は、身も心もぐしゃぐしゃだった。

最初は、精神的なものだから、これは甘えだと考え毎日を過ごしていた。
ある日、フラッときて階段から真っ逆様から落ちて、頭から血を流して、
周りを見たら、誰もいなかった。2人くらい生徒が通り過ぎて、また廊下はざわつき始め、眩暈で立てない私を見るものなどいなかった。
誰もいなかった。
人など、いないと思った。
いや、私が人としてここにいないのだと思った。

『学校へ行く意味』という暗い固まりが、ふいに抜けてった。

不登校になった。

といっても、理由を言わない私に両親は毎朝学校に行くまで怒鳴り無理矢理車に乗せる。行ったら行ったでエスカレート式のいじめ。

死にたかった。

『いじめなんて消えて欲しい』そんなことが言える希望なんて一つもなかった。だから死ねば良いと思った。只自分に死んで欲しかった。

自殺を考えた。
遺書を書いて、包丁を机の上に置いて、TVの自殺に関するニュースを虚ろな目で眺めていた。

その自殺は、何処で誰が起こしたかは忘れた。けど、覚えていることがある。

自殺した少年は、親を殺してから自分も死んだんだ。

私は思った。
死ぬ前に人を殺すぐらいの人がいるなら… どうせ死ぬくらいなら…
もちろん殺人なんていう恐ろしいことをしたいとは思わない。
どうせ死ぬなら、好きなことを精一杯して、好きなことに挑戦して試してからでも良いじゃないか。
光が見えた気がした。

勇気を出して、親にいじめを受けていることを告白した。先生との面談の時間を作ってくれた。

私の望むこと。
それは通信制高校への転校。今いる場所から逃げられるなら、早く逃げたかったし、何よりバイトして自分の家族の家計を助けたいという気持ちから。(私の高校はバイト禁止だった。)

先生は泣いてくれた。
心身になってくれた。
気持ちがとても嬉しかった。
けれど、あなた達が動いたことで、なんら変わりないことを、私は知っている。

涙で濡れた拳を握り締めた。
その時、

光は暗幕に閉ざされた。

『早まんないで。それは一時的なものに過ぎないし、転校なんていう考えは、またまだ早いと思うの。』

涙が一瞬で渇いた。

父が、再び通信制高校の話題を出す。すると、

『いえいえ、だからそれはまだ全然後でで良いですから』
嫌だ。今が良い。
声が出る変わりに、喉がごくんとなるだけ。

『なんとかいじめを我慢して、一年間学校頑張ってみませんか』

だから、勉強自体ままならないのに。
いじめだけを我慢して、勉強になんら差し支えがないなら、そんなの乗り越えられる。

「ですけど、本人の望みならば、私達はできるだけ..」
遠ざかっては父が出す転校の話題を、繰り返し遠ざけて流す教師。

足が震えた。
頭の中に描いてたもの、全部崩れた。

先生、転校させて
その涙が本物なら、私をここから逃がして

面談は見事に私の希望を打ち砕いた。

今度こそ本格的な不登校が始まった。電話で訴えたり、いろいろ試したが、転校の話はすぐに流される。理由を話したからか、無理に学校へ行けとは言わなくなった両親。それでも、母の私を遠回しに責める愚痴は毎日続く。本当のことだから仕方ない。でも心は傷んだ。

リスカしようと思って、カッターをポケットに忍ばせた。指を切って見る。やっぱり痛い。首の裏に刃をあててみる。
血がいっぱい流れるだろうな。
更に刃を強くあてがう。

死ぬくらいなら、通信制に転校して、自分のペースで勉強して……
でもそれも無理になった。

死ぬしかない。

既に浅く切れて血が流れてる。

泣きじゃくりながら、もっと刃を強く、強く、

死ぬしかない。

深い切り込みが入る。このまま力を入れて、横へ動かせば………

血はさっきよりボタボタ流れてる

もう痛みなど感じない。カッターの冷たい刃が首の中で動いているだけ。
今なら死ねる気がする。

『ただいま!!!!!!!』
突然弟の声がした。私は反射的に鍵を閉めて部屋に身を潜めてしまった。

『おみやげ買ってきたよ!!!』
ああ、こっちは末っ子の声。
『ちょっとー何処いるのー?』
『部屋ー!!』
姉に返事をする。鳴き声を押し殺して。涙を滝のように流して。
カッターを刺したまま私がドアにへたりこんでいる。
そういえば、ゲームをクリアする約束してたっけ。
ごめん、破るとこだった。

『美味しそうじゃーん!!最近よく晩ご飯作ってくれるよね』

母の嬉しそうな顔。思い浮かべて涙がもっともっと

『お姉ちゃんの料理美味しいよねー』

みんなの顔。
涙が止まらない。

私、まだ生きて話さなきゃ。みんなと今日のこと、明日のこと、話さなきゃ。
おみやげ見たいな。
みんなの顔が見たい。
まだ一緒にいたい。
笑いたい。

『待って今着替えてるから』

涙声になってないか心配になりながら、カッターを抜いた。

思ったより深くて、痛みがどっときた。

それでも血はそんなに長く止まらないわけじゃなかったから、もしかしたらあまり深くなかったのかもしれない。

でもそんなのどうでも良い。
私は今から生きるから。

どんなに辛くたって
こんな自殺未遂まで追い込まれた気持ちだって

こんなに早く吹き飛ばしてくれる人達がいる。
私はまだ、大丈夫。
また、助けて貰える。
ありがとう ありがとう

匿名・女性・16歳


私は奈良に住む21歳です。
職業は大学生だけど、ほとんどニート。
13歳からリストカットがひどくなった私は、何度も精神科に入院し、何度も自殺未遂を図ってきました。
時には睡眠薬を何百錠も飲んだこともあります。
16歳の梅雨、私は何十歳も年の離れた人と結婚を前提にお付き合いをしていたのですが、その彼が亡くなりました。
奇しくも彼の死は自殺でした。
遺書には、「もう会社が回らない、僕の保険金で従業員を頼む」と書かれており、最後に「僕の人生の中で最も愛した女性をよろしく頼む」と書かれていたそうです。
その女性とは、私のことです。
今まで、私に死ぬなと言い続けてきた人の突然の死でした。
私は自分を責めました。
何故、気づいてあげられなかったのだろう。何故、あの夜、電話をかけ続けなかったのだろう。私が彼を追い詰めたのではないか。
考えると、今でも後悔ばかりが胸を突き刺します。
でも5年経った今、私は彼が亡くなって以来、初めて人に守られています。
初めは、この人もきっと私のリストカットの傷を見たら、逃げていくに決まっていると思っていました。
でも、彼は違いました。
荒れ狂う私を見て、彼は私を抱き締め、怒鳴りました。
「お前は生きてるんだ!!」「俺の半分なんだよ!!」と。
心臓が止まりそうでした。
そして、私は握っていたカッターを落としました。
彼は落としたカッターを拾って、「これもお前なんだ、俺がいるんだからもう逃げるなよ。俺もお前から逃げないから」と言ってくれました。
その瞬間、私はやっと、とりあえずにしか過ぎないかもしれない今日という日を生きることにしました。
生きる勇気などという大層なものではないけれど、彼がよく言う「今まで通って来た道には全て意味がある」という言葉が、今、やっとわかった気がしています。

私の吊らない話が少しでもお役に立てば、光栄の他ありません。
もし、私の目の前に死を考える人がいるならば、私は言うことでしょう。
「私はあなたから逃げない」と。

早瀬さと子・21歳
http://blog.livedoor.jp/satoko_page/


わたしは、学校が大好きでした。

わたしは、八年間
イジメられてました。
もうわたしの精神も持たなくなりました。
わたしは。毎日
「死にたい」
「生きてる意味そんなの無い」
そう想ってました。
でも。わたしはある曰、病院に行き女の子と友達になりました。
そして、いつも優しくしてくれました。
幸せでした。
わたしは。人の温さに触れ。答えが分かりました。
自分の胸に手を当てて
目を閉じ。
「ドキドキドキ」
心臓の音。
それがわたしの 「生きてる意味」
わたしは生きてる。
ちゃんと心臓も動いてる。 沢山泣いてもいい。
沢山逃げてもいい。
沢山叫んでもいい。
それでも、ちゃんと
生きてる、わたしは生きてる心臓が動いてる、
それがわたしの
「生きてる意味」

梨香・16歳


「あなたがいると周りがおかしくなる」

「存在されると迷惑」

母親との仲違い、父親の死、レイプ、親友の自殺、イジメで私はうつ病、PTSD、自傷症候群(リストカット)、ODを身体の中に抱えていました。
さらに精神病の偏見により学校では酷い疎外や陰口、嫌がらせを受けました。
また家にも母親の愛人が住み着き私の居場所なんかありませんでした。

「もう辛い。死にたい。このまま生きていたって病気だって治らないし、環境だって変わらない誰も私を必要としない」

日頃ODを習慣としていた私は、その日普段乱用する量の倍摂取しました。

その時の私は、死に対してなんの恐怖もありませんでした。

それでも発見が早く、九死に一生を得てしまいました。
救急車で運ばれ、胃洗浄をし、さまざまな処置を施してくれたそうです。
数日間意識不明の末、戻ってきた私を待ち受けていたのは現実、でした。

誤飲性肺炎を引き起こし、高熱が続き苦しい日々を送りました。
薬の後遺症により、神経の一部が破壊され足が動かなくなりました。

母親は冷たい目で私を見ていました。
学校は「退学してほしい」と言ってきました。
名前に傷がつくのを恐れていたそうです。

もはや私には自ら命を絶つ気力すら残っていませんでした。
体力が回復したら、もう次は失敗しない。密かにそう決意していました。

でも退院してからまもなく、親友からメールがきたのです。

心配の声や労わりの言葉は一つもない、たった一言だったけれど、私には十分でした。

「焦らずに、今をいきろ」

他の友達からも「よかった」という声や「次同じことしたら許さないからね!」という怒りの声が舞い込んできました。

そして「何もしてやれなくてゴメンな。出来ることなら俺が変わってやりたい」
そう言って、泣いてくれた人もいました。

  私は今自殺を意識せず前向きに生きています。
自殺未遂をした代償に得た後遺症は、自分の過去の過ちとして悲観せずに抱えていきます。

自殺未遂をする前、そして助かった直後は「生きる勇気」がありませんでした。
生きることが怖かったのです。
周りから疎まれ、独りで生きていかなければいけない恐怖。孤独。

でも、自分が思っていた以上の人間が、私を必要だと言ってくれたのです。
心から心配してくれました。

私の「生きる勇気」は、周りの人のおかげで自分の中で生まれました。

今この瞬間も死にたい、と感じている人もいるかと思います。
でもその前に周りを見てほしい。
自分の痛みを共有してくれる人が絶対いるんです。

「自分には心配してくれる人がいない」
そんな事、絶対ありません。
人は、世の中に関与せずに生きることは不可能だから。

「死ぬ勇気」なんかいらないのです。
「生きる勇気」を見つけてください。

匿名希望・18歳


ここ数年いじめなどによる自殺が急増しているのを報道でしり、何も出来ない自分に対して苛立ちがあります。
たまたまこのホームページを拝見し、自身の経験をお話したいと思いました。
私も中学2年生の時にイジメにあいました。同級生からの無視や暴言や教室の机にゴミが入れられるなど、
様々な事がありました。耐える事が出来ず登校拒否になり自殺未遂を繰り返すようになりました。
その時の担任の教師の方や学校側はイジメの事実を認めず、両親や親戚の意向で転校する事になりました。
私自身の考えで留年する事を転校先の教師の方や教育委員会の方もご理解してくださりました。
転校先でもなかなか馴染めなかったのですが、両親や親戚や教師の方のお陰で卒業する事が出来ました。
転校先での弁論大会で担任の教師の方から「自身の過去の話をしたらどうか?」と言われましたが、その時の私には出来ませんでした。
でも周囲の方は責める事もなく、私のペースで生活出来ました。大人になってからも様々な事がありました。
何度も自殺未遂を繰り返しましたが、最近になり、やっとしんどいのは私だけじゃないし、
どれだけ周囲の方に支えられてるのか感じる事が出来ました。そして生きてるから嬉しい事も感じる事が出来るし、
喜ぶ事も感じられる事が出来ます。もちろん辛い事もたくさんあります。でもそれも生きてるから感じられる事です。
病気で生きたくても生きる事が出来ない人もたくさんいてます。自分の生命を自分で終らす事は決してしないで下さい。
しんどい時、辛い時はあるけど様々な機関があります。その機関を利用して下さい。
独りじゃないし、必ず自分の事を必要としてくれる人がいてます。様々な障害をもった方達を見て、
頑張ってる姿を見てると励まされるし勇気をもらいます。
一生懸命生きてる人をみると自殺しようと思ってた自分に対して反省の気持ちが強いです。
生きてるから喜怒哀楽が感じる事が出来る事を忘れないで下さい。公共の機関など、様々な相談機関が増えてます。
自分の生命を大切にして下さい。生きててよかったと感じる事がくる日があります。
私もそう思う時がありましたから…

匿名希望 20代


初めまして。 あるサイトを通じて貴サイトを知りました。
私自身も心内に通院中で、それを原因に休職を繰返したり転職や更に職場を失ったりといこの7年間、色々と有りましたが、
現在は介護士として認知症の方々と共に笑い泣き…感動を覚える毎日まで元気になりました!
今は自分の居場所と思えるグループホームにて、先日はケアマネ受験にまで辿りつきました。
スポーツジムにも通える様になりました。
2年半程前から立ち上げたHPで是非とも貴サイトを紹介させて頂きたく御連絡させて頂きました。
介護、福祉のみならずメンタル系や障がいのある方々も足を運んで頂いております。
どうぞ宜しくお願い致します。
あの時、死ななくて良かったと今になって改めて思います。リスカやアムカの痕は消える事はありませんが、
それが自分への次へのステップとなる「印」となっています。
隠す事もしません!今は不思議と笑って言えるんです「これ!?切った痕だよ」って…心の病への偏見を無くしたいとの思いで立ち上げたHPです。

【はるの森】
http://www.freepe.com/i.cgi?takammy
管理人:はる


ちょっと待って、死を選ぶ前に

私はツライことがあっても自殺の選択肢はない。
誕生した命、同時にこの世を生き抜く使命を授かった。
それは生きることがどんなに価値があることか。

アフリカでは食料不足で命を失う人がいる
津波で家族を失った人もいる
無差別攻撃で目の前で両親を殺害された人もいる

そして、
大災害の中、誕生した生命もある

生死の選択の余地もなく運命に任せて

世界には、それでも必死に生き抜いている人がいる

贅沢な日本で、自ら尊い命を終わらせるのはもうやめよう
アナタしか持っていないもの、あるよ
まだ気づかないだけかな
もう気づいてるかな

アナタを待っている人はいる
アナタを待っている場所がある
アナタの気持ち、大切にして
ちょっとアッチを向いたら
違う世界が待っているよ

日本が窮屈なら、世界へ飛び出そう
言葉なんて関係ない

世界は、気持ちで通じるから
dont think about killing yourself

love

ai 23歳 女性 看護学生


幼いころから活発で前向きで明るかった私が、自殺を考えたのは高校三年の時でした。
引き金は高校生になってから考え始めた『自分が生きている意味』についての結論。
私は母の理想通りの子供に育たなかったようで、高校生になってから母の口からは、
「邪魔な子・迷惑な子・いない方がいい…」など、私に対する不満しか聞いたことがありませんでした。
「そんなに嫌やったら産まんかったらよかったやろ…邪魔な子産むなよ」時々怒りと悲しみが込み上げてきました。
そして「自分がいなければ、お母さん幸せになるんかな?」次第にそんなことを思うようになりました。
(もちろん母との問題だけで自殺を考えたわけではありません。)
「誇れるようなところもないし、長所尋ねられても全く出てこないような何一つ取り柄のない人間やし、迷惑な子やし生きてる価値ゼロやわ…」そう思い、これから生き続けていくことへの不安と、今生きていることの辛さから現実逃避したいが故に自殺を決意し遺書を書き始めました。
18年分の思いを綴るものですから何日かかけて書き上げるつもりでした。
その計画が狂ったのは、一番の親友の突然の自殺でした。
彼女は遺書に『私がいなくなっても誰も悲しまない』そう書いていました。
私も同じ思いを抱いていました。しかし告別式で目にしたのは、泣き崩れる家族と、声をあげて泣く多くの友人でした。私は、一人の人間の存在価値の大きさと、命の尊さを痛感しました。親友に向かって「自分さえ楽になったらそれでいいん?残された人がこれからどんな気持ちで生きていかなあかんかわかるんか!」そう心の中で叫びました。それはその時の自分自身への問いかけでもあったように思います。
その三ヶ月後、もう一人の友人が急性リンパ性白血病で亡くなりました。「もっと生きれたらな〜。将来は学校の先生になりたいねん」死ぬことが分かってるのに将来のことをよく話していました。
生きてることの辛さに耐えられず自殺した親友と、生きたくても生きれない友人。
自分のことばかり考え、自分が楽になればそれでいいと思っていた私は、自分の愚かさを悟りました。
「自分よりも、もっと辛い思いしてる人が頑張って生きてる」「生きたくても生きれない人がいるんや。
生きてるって素晴らしいことなんやな」そう思うことで前向きさを取り戻し、周りの人にも目を向 けるようになりました。
自殺する寸前だった自分が「こんな悲しい思いする人たちを増やしたくない」「自ら命絶つ人を出さないためにも、命の尊さをみんなにもっと解ってほしい」「体が健康な自分だからこそできることをして、困ってる人を助けたい」そんな願いを持つようになりました。そして無事高校を卒業した私は、前向きに自分らしく輝いて生きるためにも、将来について考え始めました。そして医師になることを決意し、今勉強に励んでいます。多くの人の身心の健康のために、又、尊い命を守るために生涯尽くしていけるなら、それは自分にとって最高の幸せです。

ミィ 20歳 女性


私なんかいなければ善い、そう思っていきていました。今もその思いは胸の奥に潜んでいるかもしれません。
でも私は自殺は絶対しないと決めました。
5月9日私は215定の薬を一気に飲みました。精神科にかかっているので大量の睡眠薬や他の様々な薬が手元にあり、あるだけ飲みました。
死のうとしました。偶然、パートしている母がいつもより早く帰宅し、意識のない私を見つけ救急車を呼びました。見つからなければ、舌根がのどに落ち窒息死するか、または他の理由によって死は確実だったそうです。

その日、私はどうにかなりたかったのです。腕を切っても満たされない、話したくても誰もいない、どうにか、どうにかなりたかった…
そして薬を飲むに至ってしまいました。
薬を飲んでから、2日後、私は目覚め口には太い管、両手は紐で絞められていました。
救急致命センターにいました。私は生きていました。
両親は笑顔でよろこんでいましたが、私は死んで善かったのにな、と思っていました。
私のそんな気持ちを動かしたのは、退院してからのこと。入院中はなんともなかった胃、肝臓が悲鳴をあげはじめ、私は水も食べ物もなにも受け付けなくなってしまいました。
手足は痺れ、立ち上がることも、寝返りをうつのも出来ず、寝ている事もくるしかった。母は近くの病院に連れていってくれ点滴で命を繋ぎました。
くるしくて、くるしくて、生きることをリアルに感じました。処方された胃、肝臓の薬のおかげでバナナを一口食べることが出来た一週間後は喜びでいっぱいでした。
そして立って歩けるようになった私は久しぶりに外に出ることができ、犬と散歩に行くことにしました。
夏の陽気、日差しがまぶしくて、嬉しくて生きていて嬉しい、そう感じながら歌いながら歩きました。
ご飯が食べれる喜び、歩ける喜び、外を歩ける自由、すべてに感動し嬉しくて仕方なかったです。
死を願った私は、あの日本当に失くなってしまったんだなってかんじました。

それは死んだ方が楽かもしれない。
全ておわるから
全て終わるから?
そう、自分の思いも、気持ちも体も全て終わってしまうんでしょう?
その恐ろしさを全ての人が理解してくれることをねがいます!!!

匿名女性 21歳