自殺者の7割が誰にも相談しないのが現状です。自殺防止キャンペーンでは、相談できる機関、団体をサポートしていきます。
自殺防止キャンペーン活動趣旨
オレンジバンドは、「一人でも多くの人の命と心をつなぎ、暖かく明るい社会をこの世の中に創る」意味を持っています。
必要なのは一人ひとりの生きる勇気であり、生きる喜びです。この世の中には楽しいことや苦しいこともありますが、人との心の連帯感ができたとき、人は世の中を明るく歩いて行けます。オレンジバンドは人の心を明るくするバンドです。
一人でも多くの方にご参加いただき、心をつなぐキャンペーンを展開するため頑張っていきましょう。オレンジバンドに協力してくれる方は間接的ではありますが、心が温かい言葉になってその方に届きます。
自殺防止キャンペーンの活動に賛同していただける団体、個人からの寄付を受付けています。
オレンジバンドの売上げ同様、自殺防止に取組む活動に利用いたします。
自殺防止を全国に訴え、政府機関厚生労働省に自殺防止支援を求めます。
また自殺防止出版物製作、WEB製作、いのちのイベントに活用されます。
自殺防止キャンペーン事務局では、
もっと多くの方に知っていただきたいと考え、サイトリニューアルを検討しております。
自殺防止に関する情報、団体、個人サイトまた投稿記事などをもっと皆さまご紹介したいのです。
自殺防止キャンペーンの活動に賛同していただける団体、個人からの寄付、よろしくお願いいたします。
メールのご紹介
自殺防止キャンペーン事務局にはたくさんの方からメールが送られてきております。
連載の了解をいただきましたメールをご紹介いたします。
ここ数年いじめなどによる自殺が急増しているのを報道でしり、何も出来ない自分に対して苛立ちがあります。
たまたまこのホームページを拝見し、自身の経験をお話したいと思いました。
私も中学2年生の時にイジメにあいました。同級生からの無視や暴言や教室の机にゴミが入れられるなど、
様々な事がありました。耐える事が出来ず登校拒否になり自殺未遂を繰り返すようになりました。
その時の担任の教師の方や学校側はイジメの事実を認めず、両親や親戚の意向で転校する事になりました。
私自身の考えで留年する事を転校先の教師の方や教育委員会の方もご理解してくださりました。
転校先でもなかなか馴染めなかったのですが、両親や親戚や教師の方のお陰で卒業する事が出来ました。
転校先での弁論大会で担任の教師の方から「自身の過去の話をしたらどうか?」と言われましたが、その時の私には出来ませんでした。
でも周囲の方は責める事もなく、私のペースで生活出来ました。大人になってからも様々な事がありました。
何度も自殺未遂を繰り返しましたが、最近になり、やっとしんどいのは私だけじゃないし、
どれだけ周囲の方に支えられてるのか感じる事が出来ました。そして生きてるから嬉しい事も感じる事が出来るし、
喜ぶ事も感じられる事が出来ます。もちろん辛い事もたくさんあります。でもそれも生きてるから感じられる事です。
病気で生きたくても生きる事が出来ない人もたくさんいてます。自分の生命を自分で終らす事は決してしないで下さい。
しんどい時、辛い時はあるけど様々な機関があります。その機関を利用して下さい。
独りじゃないし、必ず自分の事を必要としてくれる人がいてます。様々な障害をもった方達を見て、
頑張ってる姿を見てると励まされるし勇気をもらいます。
一生懸命生きてる人をみると自殺しようと思ってた自分に対して反省の気持ちが強いです。
生きてるから喜怒哀楽が感じる事が出来る事を忘れないで下さい。公共の機関など、様々な相談機関が増えてます。
自分の生命を大切にして下さい。生きててよかったと感じる事がくる日があります。
私もそう思う時がありましたから…
匿名希望 20代
初めまして。
あるサイトを通じて貴サイトを知りました。
私自身も心内に通院中で、それを原因に休職を繰返したり転職や更に職場を失ったりといこの7年間、色々と有りましたが、
現在は介護士として認知症の方々と共に笑い泣き…感動を覚える毎日まで元気になりました!
今は自分の居場所と思えるグループホームにて、先日はケアマネ受験にまで辿りつきました。
スポーツジムにも通える様になりました。
2年半程前から立ち上げたHPで是非とも貴サイトを紹介させて頂きたく御連絡させて頂きました。
介護、福祉のみならずメンタル系や障がいのある方々も足を運んで頂いております。
どうぞ宜しくお願い致します。
あの時、死ななくて良かったと今になって改めて思います。リスカやアムカの痕は消える事はありませんが、
それが自分への次へのステップとなる「印」となっています。
隠す事もしません!今は不思議と笑って言えるんです「これ!?切った痕だよ」って…心の病への偏見を無くしたいとの思いで立ち上げたHPです。
【はるの森】
http://www.freepe.com/i.cgi?takammy
管理人:はる
ちょっと待って、死を選ぶ前に
私はツライことがあっても自殺の選択肢はない。
誕生した命、同時にこの世を生き抜く使命を授かった。
それは生きることがどんなに価値があることか。
アフリカでは食料不足で命を失う人がいる
津波で家族を失った人もいる
無差別攻撃で目の前で両親を殺害された人もいる
そして、
大災害の中、誕生した生命もある
生死の選択の余地もなく運命に任せて
世界には、それでも必死に生き抜いている人がいる
贅沢な日本で、自ら尊い命を終わらせるのはもうやめよう
アナタしか持っていないもの、あるよ
まだ気づかないだけかな
もう気づいてるかな
アナタを待っている人はいる
アナタを待っている場所がある
アナタの気持ち、大切にして
ちょっとアッチを向いたら
違う世界が待っているよ
日本が窮屈なら、世界へ飛び出そう
言葉なんて関係ない
世界は、気持ちで通じるから
dont think about killing yourself
love
ai 23歳 女性 看護学生
幼いころから活発で前向きで明るかった私が、自殺を考えたのは高校三年の時でした。
引き金は高校生になってから考え始めた『自分が生きている意味』についての結論。
私は母の理想通りの子供に育たなかったようで、高校生になってから母の口からは、
「邪魔な子・迷惑な子・いない方がいい…」など、私に対する不満しか聞いたことがありませんでした。
「そんなに嫌やったら産まんかったらよかったやろ…邪魔な子産むなよ」時々怒りと悲しみが込み上げてきました。
そして「自分がいなければ、お母さん幸せになるんかな?」次第にそんなことを思うようになりました。
(もちろん母との問題だけで自殺を考えたわけではありません。)
「誇れるようなところもないし、長所尋ねられても全く出てこないような何一つ取り柄のない人間やし、迷惑な子やし生きてる価値ゼロやわ…」そう思い、これから生き続けていくことへの不安と、今生きていることの辛さから現実逃避したいが故に自殺を決意し遺書を書き始めました。
18年分の思いを綴るものですから何日かかけて書き上げるつもりでした。
その計画が狂ったのは、一番の親友の突然の自殺でした。
彼女は遺書に『私がいなくなっても誰も悲しまない』そう書いていました。
私も同じ思いを抱いていました。しかし告別式で目にしたのは、泣き崩れる家族と、声をあげて泣く多くの友人でした。私は、一人の人間の存在価値の大きさと、命の尊さを痛感しました。親友に向かって「自分さえ楽になったらそれでいいん?残された人がこれからどんな気持ちで生きていかなあかんかわかるんか!」そう心の中で叫びました。それはその時の自分自身への問いかけでもあったように思います。
その三ヶ月後、もう一人の友人が急性リンパ性白血病で亡くなりました。「もっと生きれたらな〜。将来は学校の先生になりたいねん」死ぬことが分かってるのに将来のことをよく話していました。
生きてることの辛さに耐えられず自殺した親友と、生きたくても生きれない友人。
自分のことばかり考え、自分が楽になればそれでいいと思っていた私は、自分の愚かさを悟りました。
「自分よりも、もっと辛い思いしてる人が頑張って生きてる」「生きたくても生きれない人がいるんや。
生きてるって素晴らしいことなんやな」そう思うことで前向きさを取り戻し、周りの人にも目を向
けるようになりました。
自殺する寸前だった自分が「こんな悲しい思いする人たちを増やしたくない」「自ら命絶つ人を出さないためにも、命の尊さをみんなにもっと解ってほしい」「体が健康な自分だからこそできることをして、困ってる人を助けたい」そんな願いを持つようになりました。そして無事高校を卒業した私は、前向きに自分らしく輝いて生きるためにも、将来について考え始めました。そして医師になることを決意し、今勉強に励んでいます。多くの人の身心の健康のために、又、尊い命を守るために生涯尽くしていけるなら、それは自分にとって最高の幸せです。
ミィ 20歳 女性
私なんかいなければ善い、そう思っていきていました。今もその思いは胸の奥に潜んでいるかもしれません。
でも私は自殺は絶対しないと決めました。
5月9日私は215定の薬を一気に飲みました。精神科にかかっているので大量の睡眠薬や他の様々な薬が手元にあり、あるだけ飲みました。
死のうとしました。偶然、パートしている母がいつもより早く帰宅し、意識のない私を見つけ救急車を呼びました。見つからなければ、舌根がのどに落ち窒息死するか、または他の理由によって死は確実だったそうです。
その日、私はどうにかなりたかったのです。腕を切っても満たされない、話したくても誰もいない、どうにか、どうにかなりたかった…
そして薬を飲むに至ってしまいました。
薬を飲んでから、2日後、私は目覚め口には太い管、両手は紐で絞められていました。
救急致命センターにいました。私は生きていました。
両親は笑顔でよろこんでいましたが、私は死んで善かったのにな、と思っていました。
私のそんな気持ちを動かしたのは、退院してからのこと。入院中はなんともなかった胃、肝臓が悲鳴をあげはじめ、私は水も食べ物もなにも受け付けなくなってしまいました。
手足は痺れ、立ち上がることも、寝返りをうつのも出来ず、寝ている事もくるしかった。母は近くの病院に連れていってくれ点滴で命を繋ぎました。
くるしくて、くるしくて、生きることをリアルに感じました。処方された胃、肝臓の薬のおかげでバナナを一口食べることが出来た一週間後は喜びでいっぱいでした。
そして立って歩けるようになった私は久しぶりに外に出ることができ、犬と散歩に行くことにしました。
夏の陽気、日差しがまぶしくて、嬉しくて生きていて嬉しい、そう感じながら歌いながら歩きました。
ご飯が食べれる喜び、歩ける喜び、外を歩ける自由、すべてに感動し嬉しくて仕方なかったです。
死を願った私は、あの日本当に失くなってしまったんだなってかんじました。
それは死んだ方が楽かもしれない。
全ておわるから
全て終わるから?
そう、自分の思いも、気持ちも体も全て終わってしまうんでしょう?
その恐ろしさを全ての人が理解してくれることをねがいます!!!
匿名女性 21歳

